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鹿児島地方裁判所 昭和59年(ワ)275号 判決 1985年10月31日

原告

五位野部落

右代表者五位野公民会々長

白石義光

右訴訟代理人

正込政夫

被告

五位野和明

右訴訟代理人

渕ノ上忠義

主文

一  被告は原告に対し、別紙物件目録記載の土地は五位野部落構成員全員の総有に属することを確認する。

二  被告は別紙物件目録記載の土地につき、昭和四二年一〇月一六日鹿児島地方法務局谷山出張所受付第九一四三号をもつてなされた所有権保存登記の抹消登記手続をせよ。

三  被告は本件土地の登記の表題部中、所有者欄に「五位野善太郎」とあるを、白石義光に更正登記手続をなすことを承諾せよ。

四  訴訟費用は、被告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

主文と同旨

二  請求の趣旨に対する答弁

(一)  本案前の答弁

1 本件訴を却下する。

2 訴訟費用は原告の負担とする。

(二)  本案の答弁

1 原告の請求を棄却する。

2 訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  鹿児島市平川町に所在する、通称五位野部落は五位野地区に居住する住民からなり、明治、大正の時代を通じてその名称で呼ばれていたが、第二次大戦後、部落の名が戦時中の部落会に通ずるというので改称し、五位野公民館との名称で組織され、部落会の議決権は各世帯の代表者が有するいわゆる「法人格なき社団」で、その代表者は公民館長「(最近は「公民会長」とも称する)をもつてする。

2  別紙物件目録記載の土地(以下「本件土地」ないしは「本件墓地」ともいう)は、鹿児島市平川町五位野部落が明治以前から共同墓地として使用し、部落全員にその実体的な所有があつたが、登記簿表題部所有者欄には部落民の一人である「五位野善太郎」なる氏名が記載されてあつた。

3  ところが被告は、五位野善太郎の相続人であつたので、本件土地を自己の所有地であると主張し、主文第二項記載のとおり所有権保存登記をなした。

4  よつて、原告は「法人格なき社団、五位野部落」の代表者として、本件土地が五位野部落構成員全員の総有に属する旨の確認を求め、被告に対し、所有権の実体を伴わない所有権保存登記の抹消を請求するとともに、登記簿表題部表示欄に五位野部落の代表者である「白石義光」名を記載することにつき承諾を求める。

二  被告の本案前の主張

1  原告(五位野部落)は地域の範囲の名称であり、法人格はなく又法人格なき社団でもないので当事者能力は認められない。仮に五位野部落に当事者能力が認められるとしても、白石義光は五位野部落の代表者ではなく五位野公民会の代表者にすぎず、いずれにしても本訴は五位野部落構成員全員によつて提起されていないので許されない。

2  請求の趣旨第二項及び第三項記載の請求は最髙裁判所において係争中の請求の趣旨と同一である(ただし第三項中白石義光とあるを遠矢末盛外一二四名にと記載されている)ので重複起訴である。

三  被告の本案前の主張に対する

原告の答弁

1  当事者能力の問題

原告(五位野部落)は、部落を公民館として組織し、規約を設定し、その規約に基づき毎年総会、臨時総会を開き、部落の代表者を選出し、かつ部落の財産を所有する。

よつて、五位野部落は、いわゆる「法人格なき社団」であり、当事者能力を有し、かつ代表者白石義光は、部落の右規約に基づく総会において選出せられた者であるから権限のある代表者である。

2  同一訴の同時訴訟の問題

本件訴訟を提起するにつき部落民の意思を確かめる必要があり期間を要したから、本件土地の別訴を一応上告しておいたが、部落において本件訴訟を提起することに代表者も踏み切つたので、別訴は上告の必要がなくなり「上告趣旨書」を提出しないことにしたので、自動的に却下されている。従つて同一事件に対する同時訴訟の疑いはなくなつている。

3  既決事件に対する同一訴訟の問題

本件土地に対する確定した別件訴訟は、第一に当事者原告が異なる。別件は同一部落にある二箇所の墓のうち、一箇所に墓碑を有する者のみを当事者として、その墓地の共有権を争つたものである。本件訴訟は部落という組織体が当事者となり、本件土地がその組織体全員の総有に属することを争つている。

第二に請求原因において異なる。すなわち、別件の請求原因は、本件墓地に墓碑を持つている者が本件土地は「墓碑所有者の共有」であることを請求原因としたものであり、本訴は本件墓地は「部落民全員の所有(いわゆる「総有」)」であることを請求原因とするものである。

4  五位野部落代表者白石義光は、本件墓地に関する別件訴訟の第一審第二審とも、選定者にも選定当事者にも参加しなかつた。

理由は、五位野部落にある、二箇所の墓地の一箇所に関する争いであり、しかも昭和四八年頃本件土地の使用者と別の墓地の使用者とを判然と区別し、一の墓地の使用者は、他の墓地を使用出来ないように各墓地内の区割を設けたことにより、本件墓地は本件墓地に墓を持つ者の共有であるとして共有権確認等の別件訴訟を提起したとき、白石義光(部落代表者)は当初から部落所有(いわゆる総有)との主張を持つており共有訴訟に加わらなかつた。

又代理人も本件墓地の別件訴訟においては、選定者及び選定当事者の意向を尊重して「総有の性質を有するが共有であるとして共有権」で争つたが、総有と認定される可能性も充分あつたから、その場合を考えて同一人が利害を異にする別の訴訟に当事者として参加するのは不適当であると思い、あらかじめ白石義光が墓地共有訴訟に加わることを保留していたものである。

従つて、本件訴訟の代表者白石義光は利害の対立する二箇の訴訟に当事者として加わつたことにもならない。

よつて、本件訴訟は同一事件に関する同時訴訟でもなく、既決同一事件に対する再訴でもない。

四  請求の原因に対する答弁

1  請求原因第1項は不知

2  請求原因第2項中、本件土地周辺に居住している住民が本件土地を共同墓地として使用している事実及び本件土地の登記簿表題部所有者欄に「五位野善太郎」の記載があつた事実は認め、その他は否認する。

3  請求原因第3項の事実は認める。

4  請求原因第4項は争う。

五  被告の主張

1  原告は、本件土地が五位野部落構成員全員の所有であるとの請求を理由づけるために、単に、本件土地が五位野方限財産目録に記載されていることと、近隣の共同墓地が個人名の表示登記があるにかかわらず、その子孫が自分の所有権を主張せず部落所有と観念していることを挙げている。しかし、右財産目録は昭和三三年一二月当時の部落役員が被告の了解を得ることなく勝手に記載したもので、右の記載があるからといつて部落所有と認定するキメ手となるものではない。しかも記載には所有との記載はなく納税義務者と記載されている。右の記載は部落の共同墓地として使用されている状況を記載したものと認めることも出来るものである。事実、本件土地は昔から、五位野善太郎の時代から本件土地周辺に居住する住民の共同墓地として使用することを認めており、このことは善太郎の娘マンカメがよく知つているところであり、被告の時代になつても特に異議を申立てるものではなかつた。

近隣の共同墓地中単独の個人名義のものは本件土地と下村市之助名義に表示登記されている同町字歩道一七二八番の墓地のみである。下村市之助の子孫である下村蔵吉が右歩道の墓地につき個人の所有権を主張せず、部落のものと考えていると証言したからといつて、本件土地が部落のものと認めらるべきだとすることは採証法則に反する。下村蔵吉は血統的には下村家の子孫ではない。東与次郎の五男として出生した蔵吉が大正一四年一〇月一五日下村次郎に養子となつている。又下村家は右歩道の墓地の周辺に土地を所有せず、どうせ共同墓地として使用されているのであるから個人の所有権を主張しても大して意味はないと考え、かつ部落有力者の圧力もあつたと推察される。

しかるに本件土地は、被告宅の前庭みたいな場所にあり被告は幼少の時から育ての親である叔母のマンカメから、本件土地は五位野家のものであり、本件土地の西側隣接地を除く東側、南側、北側の隣接地はもと五位野家のものであつたのが被告の亡父清熊の事業失敗により宅地と本件土地が残つていると聞かされていた。

更に現在の公民館建物の敷地である同町字木辻一五六〇番イは大正六年三月二日善太郎が部落有力者の圧力に屈して怨を呑んでタダ同様に取られた土地だとも聞いている(圧力とは子供の清熊を青年団に入れてやらないとのこと、又この土地も保存登記と同日に移転登記がなされているところを見ると、それ以前は善太郎の表示登記であつたと思料される)。かかる経緯もあり被告にとつては本件土地の経済的価値をはなれて祖先の為に本件土地の所有権は譲れないものである。

本件土地の表示登記と乙第四四号証の歩道の墓地の表示登記とは同じ時期になされたものと認めるべきものと思料するが、当時五位野部落の代表者として五位野善太郎と下村市之助の二人を使いわけて表示登記したと考えるのは奇異である。

本件土地及び歩道の墓地と同じ時期に表示登記されたと認めるのが常識であると考えられる同町字芋田一三八三番(乙第三一号証、乙第四六号証)、同町字無常野一七九〇番(乙第三四号証、乙第四七号証)、同字一七九一番(乙第三五号証、乙第四八号証)及び同字一七九二番(乙第三六号証、乙第四九号証)の各土地についてはそれぞれ五位野方限、村中という表示登記がなされている。同時期頃になされたと考えられる土地の表示登記において、五位野部落所有の土地として表示登記するにつき、五位野方限あるいは村中と記載する手続が数多くとられているに拘わらず五位野善太郎という個人名にて表示登記されている本件土地を部落所有の土地だとすることは採証法則に反する。本件土地が五位野部落の所有の土地であつたのであれば、本件土地も前記の土地と同様に五位野方限あるいは村中と表示登記されたはずである。

又その頃同時期に表示登記がなされたと考えられる乙第三二号証、乙第三七号証(その旧土地台帳は乙第五〇号証)及び乙第三八号証(その旧土地台帳は乙第五一号証)の土地については古屋敷方限村中との表示登記があり、乙第三三号証(その旧土地台帳は乙第五二号証)の土地については浜方限村中との表示登記がなされており同町塩屋元一九二番墓地については古屋敷方限村中との旧土地台帳の記載がなされている。

以上を勘案するに五位野善太郎の個人名義に表示登記がなされていた本件土地は、共同墓地としての利用がなされていてもその者個人の所有であつたと認めることが採証法則に合致している。

2  昭和四八年当時の部落(公民館)役員も本件墓地は被告の所有であることを認めていたもので、従つて納骨堂建設の為に本件墓地についての借地承諾書を得るために役員らが被告に依頼に来たのである。

3  被告は本件墓地は部落の共同墓地として利用されてはいるが、祖父善太郎の所有であることを幼時の頃から叔母マンカメから聞き知つており、又別にもと善太郎の所有であつた字木辻一五六〇番イ山林一一二平方メートルは部落役員の圧力により止むなく現在の公民館建物の敷地として安価にて譲渡した経緯も聞いている。

理由

第一本案前の主張に対する判断

一原告の当事者能力の存否について

<証拠>によれば、五位野部落は谷山市が昭和四二年四月二九日鹿児島市と合併して以降、鹿児島市平川町の中の一つの集落となつたが、同部落は行政区画上の変動にもかかわらず一つの集落団体として存続してきた。五位野部落には古くから各戸の世帯主で構成される「郷中寄」あるいは「部落会」と呼ばれる集落内の問題を処理する機関があり、その執行に当る代表者として総代がおかれていたが、右機関はその後昭和二〇年代頃「公民館」と呼ばれる組織に変わり、その代表者は行政の場に出るときは「公民館長」のちに「公民会長」と呼ばれ、日常の生活の場にあつては「部落会長」と呼ばれるようになり、昭和三三年一月従前の慣行を規約化した「五位野公民館会則」が制定された。五位野部落は明治初年から部落全住民の共同所有にかかる土地建物等の財産を有しており、その財産等の管理のため「大帳面」と呼ばれる帳簿が作成されてきた。右会則によると、五位野部落は同部落に籍を有し居住する全ての者は公民館員の有資格者となり、役員として公民館長一名、副公民館長二名が総会において選任されることになつており、団体としての組織を備え、構成員の変動にもかかわらず団体そのものが存続し、代表者の選任方法、総会の運営、財産の管理、会計報告その他団体としての主要な点が確定しており、右会則に従い運営されてきた。以上の事実が認められ、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。右事実によれば、五位野部落は被告が主張するような単なる地域の範囲の名称ではなく、法人格を有しない社団、すなわち権利能力なき社団に該当し、右社団には代表者の定めがあるのでその名において訴訟上の当事者となりうる能力を有することが認められる。従つてこの点に関する被告の主張は理由がない。

二同一訴の同時訴訟の問題について

<証拠>によれば、上告人遠矢末盛外一一名、被上告人五位野和明間の昭和五六年(ネ)第一二九号、一四〇号土地共有権確認等請求控訴、同附帯控訴事件について上告人らは上告の申立をしたが、上告状に上告理由の記載がなく、上告理由書の提出もなかつたことにより、本件上告は却下されていることが認められ、右事実によれば同一事件に対する同時訴訟の問題は生じていないことが認められる。従つてこの点に関する被告の主張も理由がない。

三既決事件に対する同一訴訟の問題について

被告が本訴と重複起訴であると主張する訴訟は、本訴とは当事者である原告が異なるうえに、請求原因においても異なる。すなわち、被告が主張する訴訟は前記二で認定したように確定したが、右訴訟においては五位野部落にある二箇所の墓地のうち、一箇所に墓碑を有する者のみが当事者となつて本件墓地が共有であることを請求原因としたものであるが、本訴訟は部落という組織体が当事者となり本件土地がその部落の構成員全員の所有(総有)に帰属することを請求原因としたものであるから、本訴は既判力には抵触しない。従つてこの点に関する被告の主張は理由がない。

第二本案に対する判断

一まず本件墓地の所有権の帰属主体について検討する。<証拠>によれば、五位野部落は東方を錦江湾、南方を五位野川、北方を花水川で画され、西方に薩摩山脈をひかえた地域に古くから存在する集落であり、同部落は明治、大正、昭和における行政区画上の変動にもかかわらず一つの集落として存続し現在に至つている。前記第一で認定したとおり五位野部落には古くから各戸の世帯主で構成される「郷中寄」と呼ばれる集落内の問題を処理決定する機関があり、右機関は昭和二〇年代以降「公民館」と呼ばれる組織にかわり、その代表者は「公民館長」または「公民会会長」と呼ばれるようになり、昭和三三年一月従前の慣行を規約化した「五位野公民館会則」が制定された。五位野部落は明治初年頃から部落全住民の共同所有にかかる土地建物等の財産を有しており、財産等の管理のため「大帳面」と呼ばれる帳簿が作成されてきた。五位野部落は江戸期より本件墓地及び鹿児島市平川町字歩道一七二八番一所在の墓地(以下「歩道の墓地」という)を部落住民の共同墓地として使用し、部落住民が右墓地の予め決められた持分ないし区画部分に埋葬する限り誰の承諾も必要はなく部落に居住する者は当然の権利として使用してきた。本件墓地は明治二二年三月土地台帳制度が発足した頃、土地台帳には五位野善太郎(以下「善太郎」という)の、歩道の墓地は下村市之助(以下「市之助」という)の各所有名義に登録されたが、その後においても前記のように部落の共同墓地として使用され部落住民全員の共同財産と認識され、五位野部落所有の他の財産とともに前記大帳面に登載され管理がなされてきた。その後大帳面が焼失したため、公民館の役員により昭和三三年一一月「五位野方限財産目録」が作成されたが、右目録にも前記両墓地は登載された。善太郎、市之助死亡後、右登録名義の変更は行われず、昭和三五年法律一四号による不動産登記法の一部改正により土地台帳と不動産登記簿の一元化が図られ、表示の登記簿が作成された際所有者欄に善太郎及び市之助の名義が表示されるに至つた。ところで本件墓地につきその所有者欄に善太郎の名義が表示されるに至つた経緯は右認定のとおりであるが、これは以下の認定事実から認められるように部落住民を代表して善太郎の名義で登記され表示されるに至つたものと考えるのが相当である、すなわち、<証拠>によれば、平川町の芝野、古屋敷の各部落の墓地の大部分は登記簿上個人の所有名義で表示ないし保存登記がなされているが、右個人名は各部落の共同墓地として公民館組織を通じて管理されてきているものであること、五位野部落には江戸時代より墓地として本件墓地の外に歩道の墓地が存するが、右墓地も市之助の所有名義とされているがその子孫である下村蔵吉らは同墓地について個人に所有権があると考えたことがなく、市之助が部落の代表者名義人となつて登記されたものと認識していること(もつとも、五位野部落所有の土地として表示登記するにつき五位野方限あるいは村中と記載された例も存するところから、被告は本件墓地が五位野部落の所有であれば当然五位野方限あるいは村中と表示登記されていたはずである旨主張する、しかしながら当時の部落住民は本件墓地が部落の所有であると当然のように考え利用してきたことは前認定のとおりであるので部落の所有を表わす方法として当時の代表者名義を借りて土地台帳に登録したものであると考えられるので、所有者欄に「五位野方限」と記載されていないからといつて必ずしも五位野部落の所有を否定する根拠とはなりえない。)、以上の事実が認められ、これに前記認定事実、すなわち、本件墓地は部落住民全員の共同財産と認識され共同墓地として使用され、五位野部落所有の他の財産とともに大帳面に記載されその後作成された五位野方限財産目録にも登載された事実をあわせて考えると、本件墓地が善太郎の名義で表示登記されているからといつて本件墓地が善太郎個人の所有に属するとは認め難い。

二次に本件墓地及び歩道の墓の利用形態につき検討するに、<証拠>によると、右両墓地は明治以前より部落の共同墓地として使用されてきたが、五位野部落の住民は右墓地内の一定の区画内に死者を埋葬し墓石を建立し墓地として使用を継続してきた結果、自ら各戸毎に一応の持分の形で区画割が確定し、各自の持分ないし区画された箇所に埋葬する限り、誰の許可も承諾も必要でなかつた、本件墓地内に空地がある間は分家した者等は祖先の墓の周囲の土地を埋葬地として利用し、新たに部落住民として他から移住してきた者も右両墓地の自由な使用が認められてきた、ところが昭和の時代に入り世帯数の増加及び人口増に伴い、右両墓地には空地が殆んどなくなり新たに部落住民として他から移住した者は墓地を利用することができなくなり、既に持分ないし区画の割当を受けている者の承諾を得てその一部に埋葬したり、祖先の墓を改葬してそこに新たに埋葬することもあつたが、持分に埋葬する場合には何人の承諾も要せず自由な使用が認められていた、五位野の部落住民が部落を出て区域外に移転した場合でも墓の使用を廃止しない以上、墓として使用する権利は依然として認められていた。

三ところで被告は昭和四八年当時の部落役員は、本件墓地は被告所有であることを認めたうえで本件墓地に納骨堂を建設するについて被告の承諾を求めてきた旨主張する。<証拠>によると、本件墓地及び歩道の墓地は五位野部落の人口増により狭少となり、新たに他から右部落に入つてきた者が利用することができなくなつたため、五位野部落は昭和四八年九月二五日頃開かれた公民館の総会で右両墓地を改葬して本件墓地に納骨堂を建設することを決議したが、本件墓地については昭和四二年一〇月一六日受付で被告名義に所有権保存登記が経由されていたため、納骨堂の建築確認申請に際し登記簿上の所有名義人である被告の承諾が必要であつた。当時五位野部落の公民館長であつた田尻二男及び役員の岩崎秋盛は本件墓地は部落住民の共用所有にかかるものと認識していたが、右建築確認申請書の形式を整えるため昭和四八年一〇月二八日頃、被告方を訪れ借地承諾書の作成を求めた。田尻らは被告に対し右承諾書の作成を求めた際、本件墓地が被告の所有に属することを承諾していたような言動をとつたことはないこと、以上の事実が認められ、右認定に対する<証拠>は採用しない。従つてこの点に関する被告の主張は理由がない。

四次に被告は本件墓地が被告所有であると確信している根拠として、被告の叔母のマンカメから本件墓地は善太郎のものであるが、部落の者に墓地として使用させていると聞いたことがある旨供述しているが、次にのべる通り、被告の右供述のみでは本件墓地につき善太郎ないしは被告が所有権を有した根拠とするには十分とは言えない。すなわち、<証拠>によると、被告は昭和二六年、一七歳の時上阪し、同四五年帰鹿するまで五位野部落に居住していなかつたので、善太郎名義の不動産が何時相続登記されたか、本件墓地のみがながく善太郎名義で残つていたのかその経緯について何も知らず、本件墓地についてもマンカメが竹田憲太郎に頼み被告名義に保存登記させたもので、被告は事前に右登記のことを全く知らされていなかつたこと、本件墓地が善太郎とその子孫の所有であるとマンカメから聞いたのは被告がマンカメと同居していた幼少の頃のことであり、善太郎所有の他の不動産と本件墓地とを明確に区別したうえで認識し記憶していたか否か疑問が存すること、被告は昭和四五年帰鹿し五位野部落に居住するようになつたが、部落の住民が本件墓地を使用していることに異議を述べたことがなく、本件土地は従前通り部落の共同墓地として利用され続け、部落と被告間には本件墓地に関し紛争はおこらなかつた。前記認定のように、本件墓地が狭少となつたので改葬し納骨堂を建設することになり、公民館長の田尻らが納骨堂を建設するため被告に対し借地承諾書に署名するように求めるまでは、被告も改葬して本件墓地に納骨堂を建設することに賛成し、自ら改葬を実施した。本件墓地に隣接する鹿児島市平川町字木辻一五四九番一、二、四ないし一〇の各土地の元地番である一五四九番の土地、本件墓地と道路を隔てた東側に所在する同一五五二番、一五五三番の各土地、同一五五四番一、二の各土地の元地番である一五五四番の土地をもと善太郎が所有していたが、右一五五二番、一五五三番、一五五四番の各土地は善太郎の死亡により五位野清熊(以下「清熊」という)に家督相続され、清熊がこれらを自己所有地として大正一四年四月二〇日受付で所有権保存登記を経由しているのに対し、本件墓地の元地番である一五五一番の土地(本件土地)は昭和四二年一〇月一六日受付で被告名義に所有権保存登記が経由されるまで相続登記等が経由されることなくそのままにしておかれた(もつとも被告はこの点に関し、本件土地以外のもと善太郎所有土地については保存登記がなされていたので相続関係書類を準備すれば相続登記ができるが、表示登記のみの土地については簡単ではないので手続が遅れた旨主張する。しかしながら、登記の表題部に所有者と記載された者の相続人は、その相続人自身の名義での所有権保存登記を申請することができ、表題部に所有者と記載された者の相続人とは、相続人の相続人であつてもよいので、被告は善太郎の相続人の相続人であることを立証すれば保存登記をすることができ、保存登記から相続登記を行う場合に比べて特に手続が複雑であるとは認め難い。従つてこの点に関する被告の主張は理由がない)。以上の事実が認められ、右事実によると被告は本件墓地が善太郎ないしは被告個人の所有に属していないものとし認識していたと推認することができるので、被告の前記供述のみでは被告の主張を認めるに足りない。

五<証拠>には、本件墓地の元地番である一五五一番の土地は善太郎の所有に属した旨の記載があり、乙第四〇号証によると、右上申書作成当時五位野部落住民であつた五位野晴吉、園田実、今井道則も右事実を承認して上申書に署名捺印した旨証言しているが、弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる<証拠>によると、五位野晴吉らは本件墓地が善太郎の所有に属することを証明する意思で右上申書に署名捺印したものではないことが認められ、<証拠>をもつて善太郎が本件墓地を所有していたことの根拠資料とはなし難い。

六以上検討してきたところを総合すると、本件土地は五位野部落という権利能力なき社団の所有に属し、権利能力なき社団の資産は五位野部落の構成員全員に総有的に帰属するものと認めるのが相当である。

権利能力なき社団は代表者によつて社団の名において構成員全体のため権利を取得し義務を負担するが、登記する場合権利者自体の名を登記することを要するところ、権利能力なき社団においては権利者たる構成員全部の名を登記できない結果として代表者名義をもつて不動産登記簿に登記することになる。

本件土地の登記簿表題部所有者欄に「五位野善太郎」の記載があること及び被告が本件土地につき昭和四二年一〇月一六日鹿児島地方法務局谷山出張所受付第九一四三号をもつて所有権保存登記を経由したこと及び本件土地の登記の表題部中、所有者欄に、「五位野善太郎」とあることは当事者間に争いがない。すでに認定したとおり、被告には本件土地の所有権が認められないので被告の保存登記は無効であり、登記の表題部中、所有者欄に「五位野善太郎」とあるのは、正しい権利者名の表示とはいえず、原告の代表者である白石義光と表示するのが正しい権利者の表示であると認められる。

七以上によれば、原告が被告に対し、本件土地が五位野部落の所有(同部落構成員全員の総有)に属することの確認を求める請求、所有権にもとづき被告に対し所有権保存登記の抹消を求める請求及び登記簿の表題部中、所有者欄に「五位野善太郎」とあるのを原告の代表者である「白石義光」に更正登記手続をなすことの承諾を求める請求はいずれも理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官日野忠和)

物件目録

所在 鹿児島市平川町字木辻

地番 壱五五壱番壱

地目 墓 地

地積 四参六平方メートル

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